キノア、キヌア、キンワ ― 名前をたどる、アンデスから世界への旅

一つの雑穀の呼び名から見えてくる、言葉と食文化の広がり

アンデスのキノア畑とマチュピチュ、山あいの農地を組み合わせた記事アイキャッチ画像。キノアの呼び名とその歴史を紹介するタイトル入り。

「キノア」「キヌア」「キンワ」。
ウェブサイトで紹介したり、商品名や説明文に使ったりするとき、「キノア」と「キヌア」のどちらにするか、迷ったことがある方もいるのではないでしょうか。

食品の商品名では「キヌア」を見かけることが多く、農業や植物に関する資料では「キノア」が使われる例も多くみられます。また、南米の言語や食文化について調べていくと「キンワ」に近い呼び方も現れます。

呼び方は違いますが、基本的にはいずれも、南米アンデス地域で古くから栽培されてきた同じ作物を指しています。

  英名:quinoa
  学名:Chenopodium quinoa Willd.

では、なぜ一つの作物に、複数の呼び方があるのでしょうか。

そこには、単なるカタカナ表記の違いだけではありません。
名前をたどっていくと、アンデスで育まれてきた一つの作物が、言葉とともに地域を越え、世界へ広がっていった歴史が見えてきます。

はじまりは、アンデスの言葉

キノアの故郷は、南米アンデス地域です。
現在のペルーやボリビアなどを含む地域では、スペイン人が到来するはるか以前からキノアが栽培され、人々の暮らしを支えてきました。

この地域で現在も広く使われている言語の一つが、ケチュア語です。
スペイン王立アカデミーは、スペイン語の「quinoa」の語源を、ケチュア語の「kinúwa」または「kínua」としています。

その音には、日本語でいえば「キンワ」「キヌワ」に近い響きがあります。
つまり、私たちが現在「キノア」「キヌア」と呼んでいる作物にも、その土地で古くから人々が呼んできた名前があったのです。

「キンワ」という呼び方は、そうしたアンデスの言葉に近い響きを伝えるものとして見ることができます。

「quinua」「quinoa」――スペイン語とともに広がった名前

16世紀以降、スペインによる支配のもとでアンデス地域にスペイン語が広がるなか、現地の言葉に由来する作物の名称も、スペイン語の中に取り込まれていきました。

現在のスペイン語では、「quinua」と「quinoa」の両方が使われています。
スペイン王立アカデミーでも、「quinua」は「quinoa」と同じ意味を持つ語として掲載されています。

ここで興味深いのは、作物そのものだけではなく、名前も、その土地の言語から別の言語へ受け継がれていったことです。

アンデスの言葉に由来する名称がスペイン語の中に取り込まれ、「quinua」「quinoa」という形で広く使われるようになったと考えることができます。

英語では「quinoa」――音にはアンデスの面影も

さらに世界へ広がるなかで、英語では「quinoa」という表記が定着しました。

ただし、英語では、このつづりをそのまま日本語の「キノア」のように発音するとは限りません。
英語では「キーンワ」「キンワ」に近い発音が代表的です。

文字を見ると「キノア」に見えますが、代表的な発音を聞くと、むしろアンデスの言葉に近い響きが感じられます。

これは、名前が世界を移動するなかで、文字と発音が必ずしも同じようには変化していかないことを示す例でもあります。

日本では「キノア」と「キヌア」が共存

日本に入ってくると、主に「キノア」と「キヌア」という二つの呼び方が定着しました。

どちらか一方だけが正しく、もう一方が間違っているという関係ではありません。
現在も、日本の公的資料や学術資料の中で両方が使われています。

さらに調べていくと、使われる分野にある程度の傾向が見えてきます。

作物学や栽培研究では、「キノア」という表記が比較的多く使われています。
農林水産省の品種登録に関する植物名でも、Chenopodium quinoa Willd. は「キノア種」とされています。

また、作物学や栽培に関する研究にも「キノア」という表記が多くみられます。
植物そのもの、栽培、品種といった視点では、「キノア」が比較的よく現れることがわかります。

一方、食品や栄養の分野では、「キヌア」という表記が目立ちます。
その代表的な例が、日本食品標準成分表です。

文部科学省の食品成分データベースでは、「穀類/キヌア/玄穀」として掲載されています。
そのため、食品成分、栄養、調理など、私たちが「食べ物」として接する場面では、「キヌア」という名称を目にすることが多くなります。

ただし、これは明確に決められた使い分けではありません。
学術研究でも「キノア」「キヌア」の双方が使われており、公的機関でも資料の目的によって表記が異なります。

したがって、
「キノア=植物・農業」
「キヌア=食品・栄養」

と完全に分けることはできません。
それでも、日本で二つの名称がどのように使われてきたのかを見るうえでは、一つの傾向として興味深いところです。

日本雑穀協会としての表記の考え方

「キノア」と「キヌア」は、現在の日本でいずれも広く使われている名称です。

そのため、どちらか一方を誤った表記と考える必要はありませんが、日本雑穀協会では、雑穀の名称として「キノア」を基本表記としています。

一方、日本食品標準成分表や商品名、引用する資料などで「キヌア」と表記されている場合には、その表記を尊重するのがよいでしょう。

また、一般の方に向けて初めて紹介する場合には、「キノア(キヌアとも呼ばれる)」のように併記すると、わかりやすく伝えることができます。

単に一つの呼び方に統一するのではなく、それぞれの呼び方が使われてきた背景を知ったうえで、伝える相手や場面に応じて、わかりやすい表記を選ぶことが大切だと考えています。

名前がたどってきた道

これらを単純に「どれが正しいか」で整理するよりも、名前が歩んできた道筋として考えてみると、少し違った景色が見えてきます。

呼び方 背景
キンワ ケチュア語の kinúwa、kínua など、アンデスの言葉に近い響き
quinua/quinoa アンデス地域でスペイン語として使われている名称
quinoa 英名として世界に広く定着した表記
キノア/キヌア 日本に入り、それぞれの分野で使われてきた呼び方

一つの作物の名前が、土地を越えるなかで少しずつ姿を変えてきたことがわかります。

キノアは、近年になって突然現れた新しい食材ではありません。
アンデスでは、長い年月にわたって栽培され、人々の暮らしとともに受け継がれてきた作物です。

その土地の言葉に由来する名前がスペイン語へと受け継がれ、さらに「quinoa」という名称とともに世界へ広がり、日本では「キノア」「キヌア」と呼ばれるようになりました。

そう考えると、「キノア」「キヌア」「キンワ」という違いは、単なる表記の揺れではありません。
そこには、一つの作物が土地から土地へ、人から人へと言葉とともに伝わってきた歴史が刻まれています。

雑穀は、粒の大きさこそ小さくても、その背景には長い時間と、それぞれの地域の暮らしや文化があります。

名前の由来をたどることもまた、その雑穀を知る一つの入口です。

「キノア」「キヌア」「キンワ」。

三つの呼び方から見えてくるのは、アンデスで育まれた一つの作物が、人々とともに地域を越え、世界へ広がってきた物語なのです。

 

執筆:中西 学(一般社団法人日本雑穀協会 事務局長)
執筆者プロフィールはこちら

関連記事

  1. 薪を背負い本を読む二宮金次郎像を左側に配し、実ったヒエ畑を背景にしたアイキャッチ画像。右側には「日本の食を支えた雑穀の力 二宮尊徳とヒエから学ぶ、備える価値」というタイトルが大きく入っている。
  2. 『「雑」には愛がいっぱい』の書影を左に配置し、右側に大きく「『「雑」には愛がいっぱい』」と「雑穀の“雑”を、いま改めて考える」と記した、やわらかなベージュ背景のシンプルなアイキャッチ画像。下部には雑穀の粒と穂が添えられている。
  3. 窓辺のテーブルに置かれた雑穀入り甘酒とあずき麹のシャーベット。「雑穀を、一皿の物語へ『夢二カフェ 港や』で味わった、夏の『涼しき甘酒』」と記したアイキャッチ画像。
  4. 青空と山を背景に咲くソバの花と、ざるそば、井上直人特別顧問の新刊『教養としての蕎麦』を配した、「蕎麦研究50年、一杯のそばから見える雑穀の世界」のアイキャッチ画像。
  5. きな粉をまぶした雑穀だんごの写真と雑穀の穂を背景に、「日本の食文化の中で、雑穀が担ってきた役割 地域の自然と暮らしが育てた、多様な穀物の食べ方」と記したブログのアイキャッチ画像。
PAGE TOP